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まぼろしの長岡京

あなたは、長岡京(ながおかきょう)を知っていますか?

平城京(現在の奈良市)と、平安京(現在の京都市)の間に、わずか10年間だけの都がありましたが、それが長岡京です。
現在の京都府向日(むこう)市、長岡京市にまたがる位置にあたります。

時代のはざまに埋もれ、教科書にもたった一行で取り上げられる程度ですが、現地には遺構も残り、なにより地名として当地域のアイデンティティになっています。

■遷都の背景

長岡京の建設を決めたのは桓武(かんむ)天皇です。

桓武天皇は平安時代の礎を築いた天皇で、平安神宮のご祭神でもあります。
西暦794年に平安京への遷都を実現し、京都は以後千年続く都となりました。
「なくよ(794)うぐいす平安京」と覚えましたね。

ただ、桓武天皇にとってこれは二度目の遷都。
当時の都・平城京からの最初の遷都先は、長岡京でした。

このころの平城京では、政治に対する仏教界の影響力が強大になっていました。
興福寺や東大寺ににらまれ、僧である道鏡(どうきょう)が太政大臣禅師という天皇に次ぐ権力の座にまで上り詰めるなど、まさに仏教中心の政治がまかり通っていました。
仏教界と距離を置くことは、遷都の目的の一つであったと言われています。

また、都が栄えるにつれて人口も増えますが、平城京は周囲に河川がないため、物流は陸路に頼るほかなく、慢性的に生活物資が不足気味であったそうです。
鉄道もトラックもない時代ですから、大量輸送には内陸でも舟が活躍していたんですね。
長岡なら川が近く、水運も活かせます。

■長岡京のこと

長岡は、東は淀川から名を変えた桂川、西は京都市洛西地区とを分かつ細長い丘陵地に挟まれた土地です。

桓武天皇は、784年5月に現地へ視察団を派遣し、同6月には藤原種継(ふじわらのたねつぐ)を造長岡宮使の長官、要はプロジェクトマネジャーに任命し、11月には長岡京へと遷都しました。
恐るべき早業です。重機もない時代にほんまかいな。

翌年の正月までには大極殿や内裏も建造したようですが、これは大阪の難波宮から移築した建物のようです。
奈良の仏教界に悟られず、素早く都を建設するための工夫ですね。

長岡京は、たった10年と短い期間であったこと、遷都自体が表沙汰にされず充分な準備期間もなかったことから、長年、ほとんど都としての体を成していなかったのではと考えられてきました。

ところが、1954年より、当時府立高校の教師であった中山修一さんを中心に発掘調査が開始され、朝堂院跡が発見されました。
それから断続的に大極殿跡、築地回廊や築地塀の一部が見つかり、途中の1964年には国史跡に指定されています。

これら発掘の成果により、長岡京は決して未完成のまま放棄されたのではなく、難波宮や平城京の建造物も移築し、東西4.3km、南北5.3kmの範囲内に大内裏、東西2つの市場、山崎・淀の2つの港を含む、平城京や平安京と遜色ない規模の都となっていたことが裏付けられています。

■長岡京跡を訪ねる

史跡としての長岡京跡は、いくつかの公園として整備されています。
その核心は、長岡京市ではなく、向日市にあります。それも「阪急西向日駅」という、のどかで日中は人影もまばらな特急通過駅の傍らに集中しています。

まずは駅から徒歩1分の「長岡宮跡朝堂院公園」を目指しましょう。
この公園にはしっかり案内所があって、係員の方が常駐し説明してくれるほか、「AR長岡宮」なるアプリを使えば、お手持ちのスマホを手に、現在の風景の上に朝堂院をはじめ長岡宮の建物群を描き出すことができます。大極殿跡や築地跡なども徒歩圏内で、もちろんAR対応です。

奈良の平城京跡には朱雀門をはじめ続々と復元建築が蘇っているし、京都には平安京跡こそほぼ残っていませんが、平安神宮の境内に平安京の大極殿や朝堂院を模した建物が社殿として復元されています。

一方、長岡京の関連遺跡では、基本的に石柱や盛土から往年の姿をしのぶのみです。
面白いかと言われると、それはもう想像力の勝負なわけですが、AR長岡宮は、訪問者の妄想のディティールを補う上で、とても良い試みではないでしょうか。

そもそも、長岡京は、長年存在不詳とされていました。

京都と大阪に挟まれた交通至便なベッドタウンである当地は、近年急激に宅地開発が進みました。それに引っ張られるように、発掘調査が進んだ側面があります。
開発が無ければ、これほどまでの遺跡は出てこなかったかもしれません。
一方で、開発により失われたものも多くありましょう。
それも含めて、郷土の歴史です。

やがて、私たちの今の暮らしぶりが、後世発掘されるときがやってくるかもしれません。
長岡京の様子は、出土した木簡に記された文字情報が大いに参考になったと聞きます。
今の我々はデジタル全盛の社会ですが、サーバに残ったビットの配列が解読されることは、果たしてあるのでしょうか。

■長岡京の棄都

そして運命の794年、長岡京遷都からちょうど10年後に、平安京への再遷都が行われます。

背景としては「早良親王の祟り説」が有力です。

785年に長岡京遷都のプロマネ・藤原種継が暗殺される事件が起きましたことに端を発し、首謀者として桓武天皇の弟である早良親王が疑われ、乙訓寺へ幽閉される道中で落命しました。
その後、桓武天皇の夫人、生母など近親者が相次いで亡くなったり、病に倒れたりするなど不幸が続きました。

また、水運を重視し、大河川の近くに建設したことが災いし、水害にも見舞われました。
これらの災厄を、まとめて早良親王の祟りだと考え、逃れるために再びの遷都を試みたというわけです。

現代なら「祟りを理由に首都移転」では有権者からお叱りを受けそうですが、当時は朝廷で決められましたから、それで政治が動いたんですね。

平安京が千年の都として安定した?栄を享受できた背景には、平城京、そして、長岡京の建設によって得た知見が大いに生かされているはずです。

マイナーではありますが、歴史のはざまにあって重要な役割を果たした長岡京。
間もなく再解禁されるインバウンドとは無縁の史跡群は、アクセス良好かつ歴史のロマン溢れる穴場です。
ぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか。

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