です。
結婚式と、その後に続く2次会、3次会までお付き合いいただいた多くの方々に、この場をお借りして厚く、もとい熱く御礼申し上げます。また、準備に奔走してくださった方々、もとより、ご挨拶を頂いたさん、そして多方面で助言、協力を頂いた社長、本当にありがとうございました。
さて。超多忙な毎日は挙式前後も全く同じで、それは嫁も同じで、実際に感じられる変化というのは、部屋にいただき物がたっぷり積まれていることとか、何か大きな作業案件が掃けたようなちょっとした開放感があるくらいです。
さんには盛大に(?)お褒め頂きましたが、実際細かく見ていくと、結婚宣言文を読み間違えたり、礼しなあかんとこで礼してなかったり、意外にご飯食べれてたりwと、突込みどころ満載の一日でした。ははは。若くてよかった。
結婚すると決めて、はじめて見えてきたものがたくさんありました。
両親がどう出会い、どう生きてきたか、生活を切り開いてきたかを知ること。
嫁がどういう家庭に生まれ、どういう人の下で育ってきたかを知ること。
今の自分が見つめるこの世界は、他人の目からはどう見えているのかを考えること。
今になって思えば、結婚することを決めるまでは、自分の目からしか世界を見ていなかった、いや、むしろ、自分しか見ていませんでした。「世界、世界」と言いながら、「世界の中の自分」しか、見えていなかったのです。その狭い枠の中で、堂々巡りをしていただけだったのです。新聞や本やネットの知識だけで分かった気になって、この毒気に満ちた世界を変えることを試みず、平凡の渦に呑みこまれて行く自分の生き様を憂いでいたのです。
大陸を7000km走って(※無鉄砲にも、昨年自分の人生に対する堂々巡りが過ぎて、自転車でユーラシア大陸横断の旅 に出たのでした。)気付いたことは、はじめから知っていたことでした。天津の都市生活者も、モンゴルの青年も、チベットの牧民もウイグル人の商人も、家族のために働き、日々を送っているのでした。顔も言葉も食べるものまで違っても、そのシンプルな営みが海の向こう、地平線のかなた、そびえ立つ山の上、どこまで行っても繰り返されているのです。その様子を五感とともに目の当たりにしたとき、当たり前の知識・常識は、真実に変わりました。なんだ、こうやって生きていくしかないんだ、自分は何も間違ってなんかいないし、むしろ恵まれてさえいるんだと。そして、自分を待つ一人の相手を思いました。
結婚して家庭を持つということは、責任を持つとか、義務を負うとか、自由がなくなるとか、尻に敷かれるとか、そういう一面的な損得の話ではなく、おそらく、人間がその使命を果たす一つの選択肢であり、連綿と築き上げてきた優れたシステムであり、歴史です。
「今が一番幸せだぞ」と言われます。でも、そういう夫婦にはなりたくないんです。たとえその生活がある一つの指標で「下降線」を辿ろうとも、幸せを測るモノサシはいくらでも用意できると思うのです。これまで同様、良いことも悪いことも沢山起こるのでしょうけれど、その全てが自分にとって必要だったように、これからの道も全て受け入れ、次に繋げられるられる度量を持っていたいのです。そして、いつか自分の子供を同じように送り出す機会に巡りあえたら、同じように言ってやりたいのです。「(お前がいて)楽しかったぞ!(俺たちは)いつまでも家族だ!」
「家族を持つ幸せ」という真実が、真実であり続けるように、一歩一歩、丁寧に歩んで生きたい。今はこう思っています。
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で、溜まりに溜まった仕事に溜息
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