桜が終わればゴールデンウィーク、それが終われば本格的な修学旅行シーズンと、市内の混雑は収まりそうにありません。
ここはひとつ、市内の喧騒を離れ、北山のそのまた奥へ分け入ってみましょう。
京都の北にあるのは「京北町(けいほくちょう)」。
新緑の美しい季節、静かな山里の風景を愛でるひととき、否応なく湧き上がる自分の内面と向き合う。「京都での愉しみ」とは、本来こういう時間を持つことなのではないでしょうか。
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市販のJR時刻表、京都周辺の路線図に、今では珍しくなったJRバス(旧国鉄バス)の黒い線が引かれているのにお気づきの方、いらっしゃいませんか。
線を辿れば紅葉の名所・高雄、鳥獣戯画で有名な高山寺を経由して、京北町の「周山(しゅうざん)」に至ります。鉄道とは接していない、一見何の変哲もない行き止まりの終点です。
バスは京都駅、京都タワーが正面にそびえる烏丸中央口の目の前、最も改札口に近いところから出発します。その名も「高雄京北線」、市バスと違い系統番号はありません。
バスは観光客でごった返す竜安寺、仁和寺の前を通って国道162号線へ入ります。
高尾、栂尾を過ぎれば清滝川の清流に沿い、北山杉の美しい木立の中を登り詰めていきます。
このルートを地元では「周山街道」と呼び、その先は「かやぶきの里」で名高い美山町を経由して日本海側の小浜に至ります。「西の鯖街道」ともいわれる所以です。
峠の長い「笠トンネル」をくぐれば、そこは京北町。しかし、風景は劇的に変わることなく、再び登りに転じ、いよいよ関西在住のライダー・サイクリストに名高い栗尾(くりお)峠に差し掛かります。
この峠、へピンカーブの連続する非常に険しい道ですが、眺望に優れており、丹波高地の山々と蛇行する桂川、京北周山地区)の街並みが視界いっぱいに広がり、実に爽快な気分が味わえました。この峠越えで、山城から丹波へと入ったことを実感したものです。
ただ、平成25年終わりにバイパスが完成し、峠道はいま長いトンネルに変わっています。この「京北トンネル」の開通で京都市中心部と京北町との往来は一挙に楽になり、移住者も増えたと聞きますが、旅情は少々薄れてしまいました。旧道はサイクリング・ハイキングコースとして残っています。
京都駅を出てからおよそ1時間20分。嵐山から洛西を流れ下る大河・桂川を渡ると(もっとも、上流のこの辺りではごくありふれた川」と言うくらいの幅しかありませんが)、バスは終点の周山に着きます。
周山地区は、旧京北町の中心地で、町役場(現右京区役所京北出張所)や大きなスーパー、学校や農協などが集まっています。
「周山」は、明智光秀がこの地に城を建てた際、中国の「周」が岐山の麓に成立した故事にちなんで名付けたとか。なお、光秀は本能寺の変を起こすまでの間、ここ周山や、亀山(現在の亀岡)を含む丹波国一帯を所領にしていました。
周山城は広大な山城で、公園としての整備などはされていませんが、石垣や古井戸などが往時の姿を偲ばせています。また、近くには京都市内唯一の道の駅「ウッディー京北」があり、周山街道を行き来する人々の憩いの場になっています。
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周山から、京北ふるさとバスに乗り換え、今度は桂川を遡ります。
一度谷が狭まりますが、すぐに田園風景が開けると、そこが「山国(やまぐに)地域」。読んで字のごとく、周囲を山に囲まれた静かな里です。
さて、京都三大祭りの一つ、秋の時代祭の行列で、いつも先頭を行く「維新勤皇隊」をご存知でしょうか。
山国では、良質の材木が採れたことから、平安京造都に供給した後も御料地として皇室との縁が続いていました。そんな山里が脚光を浴びたのは明治初頭、新政府と幕府の残党が繰り広げた最終決戦・戊辰戦争の時でした。
当地の農民たちは官軍の呼びかけに応じ、手弁当で義勇部隊を結成、勇猛果敢に全国各地を転戦し、見事官軍の勝利に貢献しました。
時代祭の維新勤皇隊は、「山国隊」とも呼ばれ、戦いを終え山国の地へ鼓笛を奏し凱旋する農民義勇兵の様子を再現しています。
大正期までは、実際に山国の住民の方が担当されていましたが、農繁期と重なるため、今は京都市中心部の住民に割り振られています。
山国には、光厳、後花園、後土御門の三天皇が祀られている「山国御陵」と、光厳上皇ゆかりの「常照皇寺」がありますが、後者は桜の名所として知られています。遅咲きの枝垂桜で、丁度今週あたりからが見頃です。京都府下唯一の桜の天然記念物・九重桜はここにあります。
一本の木に会いに、はるばる野を越え山越えバスに揺られる旅と言うのも、贅沢ではありませんか。
京北町は平成19年、いわゆる平成の大合併の時に京都市右京区へ編入しました。
京北はもともと北隣の美山町とともに「北桑田郡」に属し、近隣の美山・日吉・園部・八木の各町とともに合併の検討を始めていました。
ところが、京都市への編入を希望する住民により署名活動が行われ、実に全有権者の8割がこれを支持し、町議会に提出。人口147万を擁する京都市と1万に満たない京北町との合併は「吸収」以外の何物でもなく、議席増も行われない公算でした。
合併申出の時、京北町議は「合併は町民の願いであり、我々全員が失職し再選の見込みもないことは覚悟している」、京北町側の合併への強い思いを表明し、実現に至りました。
全国的には合併特例の適用により、「一票の格差」など度外視で議席数を増やし旧町の影響力を保とうとする動きが活発であったことを考えると、実に潔い決断だったように思います。山国隊から続く、気風の良さを感じるエピソードです。
あちこち旅をしていて感じるのは、丹波高地の山中は、「落ち着いた田園風景が続く」印象です。京北町も例外なく、日当たりのよい穏やかな景色が広がります。
これが東北の奥羽山地や長野、紀伊半島や四国あたりだと、急峻な山々が迫り、わずかな谷底に張りつく村々、という印象になるのが、京北町は山もなだらかで開放感があります。
極端な開発もされておらず、桜の時期を除けば観光客の姿はほとんどありませんが、京北町には、独特の風情があります。
それは古民家の凛とした佇まいであり、随所に残る丹念に手入れのされた山や田畑など、都を支えた暮らしや生業の片鱗、土地の人々が醸し出す雰囲気なのかもしれません。