琵琶湖疎水のはなし(前編)

春です。
出会いの季節です。

この4月から新たに京都や大阪に通勤・通学する人の中に、滋賀県在住の方は数多くいらっしゃることと思います。

そして、滋賀県の方は、大学・職場で、京都・大阪の連中に、一度は田舎であることを揶揄(やゆ)されてしまうことと思います(私がそうしているのではなく、一部の馬鹿者がそういう事をするだろう、という……予言です)。

関西圏外の方には、ちょうど首都圏における、千葉・茨城のポジションを想像していただけると適当かと思います(私が千葉・茨城をそう扱っているのではなく、一部の不届き物の……以下略)。

して、このような局面を打開すべく、滋賀県民側から発動されるのが「琵琶湖の水止めたろか!?」宣言です。

これは関西では幾度となく見られる光景、鉄板ネタで、双方こういう展開になることを分かった上で、追い込み、応酬し、同じ関西圏に居るのだという同郷意識を確認し、高め合うのであります(謎)。

さて、琵琶湖の水を止める。
これが、京都に悪影響を及ぼすという因果は、どこから生まれてくるのか。
そのカギとなる存在が「琵琶湖疎水」です。

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□琵琶湖の水を利用している京都市民

まごうことなく、京都の市街地の水道水は、琵琶湖の水です。
しかし、京都市と大津市の間は、山また山の地形です。この山を水がどうやって超えてくるのかと言えば、「琵琶湖疎水(そすい)」という人工の水路を通ってくるのです。

ここまでは、ほとんどの京都市民が知っています。

さて、この疎水、新旧二つありまして、いずれも現役稼働中。
琵琶湖側は大津市三保ヶ崎から取水され、途中トンネルを伴いながら、琵琶湖の湖面と京都盆地の間の高低差を利用して流れてきます。

京都側は、蹴上に水力発電所や船溜まりが設けられ、そこから先は南北2方面へ進路を分け、市内各所に水を通しています。

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□琵琶湖疎水物語

琵琶湖の水を京都で使おうという話自体は、秀吉が京都にいた頃からあったようです。
しかし、技術のない時代にはただの夢物語に過ぎず、長らく大都市・京都の生活用水は井戸頼み。天候に大きく左右される、大変心もとないものでした。

・難航した疎水建設

疎水建設案が具体化したのは、明治に入ってからです。
東京遷都を機に、京都の街の行く末を案じた北垣国道・京都府知事が構想し、土木技師には当時たったの21歳、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任命しました。

当時の日本は、まだまだ技術も資材も乏しく、工事は大変な困難を伴ったようです。
当然、今でいうシールドマシン(掘削機)などないわけですから、トンネルは全部、人が手で掘ることになります。

ダイナマイトは全部海外製で、説明書を読みながらの試行錯誤。
トンネルの外壁に巻くレンガも、掘削中の地盤を支える材木も切り石も、国内には売ってないので全部自分たちで作るしかない。
電気もないから、トンネル掘削は煤だらけの中、カンテラで照らしながらの作業。

作業を担う要員の供給もままならず、そもそもが前代未聞の大工事、経験者など誰もおらず、作業要員は夜に教育して昼に従事させるなど、現代からすれば苛烈としか言いようのない現場です。

最大の難工事となった「第一トンネル(全長2.4km)」だけで殉死者17名を数えるなど、犠牲も少なくありませんでした。

着工から5年が経った明治23年、大津から鴨川合流地点まで約9kmの琵琶湖疎水は、大変な苦難の末に開通しました。

翌年には、日本初の水力発電所が蹴上で運転開始され、日本初の電車(市電)運転、そして京都の近代産業発展の礎となったのです。

そもそも、この琵琶湖疎水工事そのものが、それまで当たり前だった外国人技師頼りを脱し、日本人が日本人の力だけで完遂させた初の大規模土木事業でした。

この頃の京都は、日本初を連発する進取の気勢溢れる街であり、また一方で、市民がそれだけの危機感を抱いていた、とも言えるでしょう。

・疎水事業の成功

電力や利水需要の高まりを背景に、明治45年には「第二疎水」が開通しました。
こちらは、当初から水道水としての利用を計画していたことから、汚染防止のため全線トンネルで大津京都間約7kmを直結しました。

第一疎水完成から20年あまりで技術の急速な進展もあり、工事は大変スムーズに進んだそうです。

この時、元の疎水との合流点である蹴上に浄水場が整備され、これが京都市水道の要として今日も変わらず稼働しています。

なお、この第二疎水事業を主導したのは時の京都市長・西郷菊次郎で、彼はちょうど今期の大河ドラマで注目が高まる「西郷どん」こと西郷隆盛の息子です。

・水運の衰退

琵琶湖疎水のもたらした水と電気は、京都の街の近代化を大きく進めました。
さらに、疎水は運河として鴨川の脇を抜け、伏見を経由して淀川まで繋がったことから、実際、人や物資の運搬手段としても、大いに利用されました。

なにしろ、琵琶湖疎水の完成をもって、日本海にほど近い琵琶湖の湖北から疎水、淀川経由で大阪まで、一大スケールの水運経路が開かれたのです。

ところが、鉄道の延伸開通に伴って輸送の主役は取って代わられ、完成からわずか十数年で、疎水の水運利用は急速に廃れていきました。

まず先に客運が途絶え、貨物も昭和26年に全廃となりました。

近年では、この水運を現代の観光資源として蘇らせようという動きが活発化し、実際この春から「疎水船」が運航を開始しましたが、その話はまた次回に。

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□現代の「疎水物語」と言えば

京都市水道局が売ってる水道水の缶詰、その名も「疎水物語」。
口に含めば、当たり前ですが水道水の味がします。

ただ、琵琶湖疎水が持つ、プロジェクトX顔負けの熱い歴史を思うと「疎水物語」という言葉の持つ重み、水道水の味の重みもまた違って感じられるというものです。

なお、一本100円となっており、賞味期限は驚異の10年。
地下鉄烏丸御池駅や、琵琶湖疎水記念館の自販機で買えますので、旅の思い出や、災害備蓄用水ににいかがでしょうか。ただの水道水ですが 笑

ともあれ、琵琶湖疎水、水道としては現役バリバリで、物語は継続中です。
発電所も、今でこそ小さな出力ですが、市営→関西配電→関電と所有が移りつつ、現在も運転中です。

さて次回は、琵琶湖疎水の現在の姿と、冒頭の「琵琶湖の水を止めたらどうなるか?」論争に終止符を打つべく、実際にシミュレートしてみた結果をお伝えします。

(後編へ続く)

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